ホームページ タイトル
横須賀オン・マイ・マインド

(横須賀のタウン誌 「朝日アベニュー」に毎号連載中のショートエッセイをそのまま掲載しています。)


第121回 ニューヨークの思い出
 ニューヨーク一人旅を思い立ったのは本場のジャズにドップリ浸かりたいという思いからであった。丁度ニューオリンズに行く途中で気楽な気持ちで立ち寄ったのである。9,11事件の前年であった。
 まず宿は繁華街に近い格安なコンドミニアムに決めた。ホテルではないが清潔で安全である。食事は外食だったりグローサリーショップ食だったり。食事に関しては何でもOKの私にとっては何の障害もない。
 さてお目当てのライブハウス探索だが昼間のうちにタウン紙や地図で店の場所や出演者を確かめる。地下鉄を利用し自分の足を駆使して現地訪問し予約を取る。場所を頭に入れたら昼間覚えた道を辿って夜現地に赴く。これだと暗い道でも自信満々にさっさと行けるので危険はない。
 さすがニューヨーク、ライブの質はどこも高い。そして値段は安い。特に宿から直線で数百メートルにあった「バードランド」でのライブは圧巻であった。「チャーリーパーカーを偲ぶ」という企画で上手いアルト奏者が次々と登場し、ニューヨークジャズにどっぷりつかった。
 またミュージカルよりも面白いという噂を聞いて行った「Stomp」は最高であった。大変な人気で満員だったがたまたま1席だけ最前列の席が確保できて妙技を間近に堪能したのである。やはり“世界の都”は一味もふた味も違うなあと痛感させられたのである。“ジャズの街”ニューヨークを大いに満喫した1週間であった。

第122回 ロック歌手のジャズ
 最近ビートルズのポール・マッカートニーが出したアルバムが話題を呼んでいる。ロック歌手である彼がジャズのCDを出したのは数年前に出たロッド・スチュアートのジャズアルバムが刺激になっていると思われる。ロッドのジャズアルバムは有線やBGMでよく聴かれる。
 ポール・マッカートニーのアルバムは選曲がすごくマニアックである。まず1曲目が“I‘m gonna sit right down and write myself a letter”(独り者のラブレター)というのが泣かせる。そして更にHome、Always、It’s only a paper moonと続く。どれも今ではトラッド畑の人しか演奏しない曲ばかりである。
 彼の唄はどうか?正直言ってジャズとしてはやや甘すぎるきらいはあるがでも彼の個性が十分表れている。一方レディ・ガガもジャズ歌手のトニー・ベネットとのデュオで“Lady is a tramp”というスタンダードジャズを歌っている。私見であるが歌の出来としてはジャズらしいノリが感じられるれるレディ・ガガに軍配を上げたい。
 しかしこのように全く違うジャンルのスターがジャズの曲を積極的に取り上げているのは誠に喜ばしい状況である。日本でも矢沢永吉あたりがジャズのアルバムを出したら一遍にファンになってしまうのだが・・・。まあムリだろうなあ。

第123回 初の海外演奏旅行
 私の初めての海外演奏旅行はもう40年も前になる。最初の訪問地はサンフランシスコであった。演奏旅行だけではなく、海外渡航もこの時が初めてである。既に渡航経験のあるバンド仲間たちから「最初の海外に降り立つときは興奮して眠れないよ。」と言われていたのだが私が深い眠りから覚めた時はサンフランシスコ空港への着地を済ませた飛行機が静かに滑走していた。仲間の嘲笑を浴びたのである。
 現地で泊まったのはドクター・ローレスさんという医者の家であった。まだ新婚数か月目の私に対しドクターの奥さんは「毎日新妻に手紙を書きなさい、毎日、Every day!」を何度も強調された。寝る前には「みつお、手紙は書いたか?」と確認が入るので私は旅行中どんなに酔っぱらっていても毎日手紙を出す羽目になったのである。
 この地での初演奏は「サンフランシスコスタイル」という独自のスタイルで有名なターク・マーフィジャズバンドとの共演であった。リーダーはトロンボーンの名手であるがこのバンドのクラリネット&サックスはボブ・ヘルムという人で私にとってはレコードで聴きなれた雲の上の有名人であった。彼とは2サックスで最初の晩から意気投合し、サンフランシスコの夜は更けていったのである。
 ここを皮切りにニューオリンズはじめ全米各地での演奏旅行が始まるのであるがこのツアーはその後の私の音楽人生に決定的な影響を与えてくれたのである。その最初の演奏地としてサンフランシスコの印象は私の脳裏にくっきりと刻み付けられたのであった。 

第124回 ストメロの大切さ
 ジャズはこのコラムでも度々取り上げたように主旋律とそのコードに沿ってアドリブ展開する部分から構成されている。主旋律のことを“ストレートメロディ“略して”ストメロ”という。
 演奏を聴く場合、概してアドリブばかりに注意が集中してしまいがちだが名プレーヤーのストメロはそれだけで人の心に感動を与えてくれる。ただメロディを奏でるだけだがそのシンプルさの中にプレーヤーの情感が込められ、表現力が凝縮されるのである。
 ジャズの巨人ジョン・コルトレーンという人はジャズにモード奏法を取り入れて革新的な音楽を作った人として有名である。彼の演奏技術は群を抜いており、技術、音楽性共にジャズの歴史に燦然と輝いている。このコルトレーンが晩年に“バラード”というレコードを作っているがその中で彼はストメロを淡々と演奏する。何の衒いもなく、技術を誇示するのでもないのに演奏が心のひだに沁みこんでくる。
 勿論ただストメロを淡々と・・・と口では言ってもそこにはそれなりの技術も要求される。まずは音が良い事、抑揚があること、ビブラートや装飾音のような細かい技術も必要だろう。しかし基本はその人の持つ音楽性である。私も少しでも人に感動を与える“ストメロプレーヤー”になりたいと常に願っているのである。

第125回 ジャズとIT
 ジャズとITとは昔から全く無縁のものと考えられていた。古いジャズマンにはITなど無関係と関心を示さない人も多いのだが最近はIT化の波がヒタヒタと足元に迫っているのを感じることがある。
 我がビッグバンドでは新曲が決まるとその音源が各メンバーに送られてくる。大体全ての情報はメールで済ませるのでメールなしでは完全に蚊帳の外に置かれることになるのだが音源も予め聴いておかないと練習に支障をきたすことになる。
 また譜面をパソコンで作成することができるようになって便利さは格段に増した。以前は手で写譜していたので見にくいし間違いも多々あった。それに写譜はとても時間を食うのだがパソコンでは一発でOKである。その上転調も一瞬にしてできる。
 更に画期的なのはそれらの譜面をアイパッドに入れれば何千曲という譜面が全て一冊に収容できるのである。重たい譜面をいちいち持参しなくて済むし全く知らない曲でも即座に観ることができるのである。今やベーシストやピアニストなどの愛用者は多い。
 しかしこうしたITの恩恵を受ければ受けるほどジャズマンの基本的な能力の一つである「曲を覚える」技術は衰えたように感じる。やはり基本は耳で聴いて覚えるべきではないだろうか。IT音痴の私は負け惜しみ気味に時流に逆らって未だに“暗譜”に頼っている。

第126回 深夜のジャムセッション

 その日は丁度今頃のような暑い日であった。渋谷でジャズ仲間と練習し、その後居酒屋で反省会?を行った。いつものように後のみではジャズ論を戦わせて楽しい時間を過ごしたのである。そして終電間際となり仲間の一人のアパートにしけこむことになった。
 仲間のアパートは等々力という街で駅からアパートに向かう途中、こんもりした森があり、その中に社が見える。3人は異口同音に「ちょっとここでセッションしようか!」直ちに実行。
 皆持参の楽器を取り出す。ギター、ドラム(スティックのみ)そして私のソプラノサックスである。恐る恐る吹き始めたのであるが音の響きが素晴らしい。その後も経験したことであるが木立の中は反響が素晴らしく音が澄んで聞こえる。次から次へと数十分演奏を続けた。
 するとやがて小さい老人がちょこちょこと歩み寄ってきて「君たち、今何時だと思っているの?」だと。みすぼらしいおじさんは警官であった。そのまま近くの交番に連れ込まれて延々と油を搾られた。
 後日談である。仲間の一人が報道関係に勤めていた。翌朝ニュース原稿を見ると昨夜等々力不動で深夜楽器を演奏していた若者がいた・・・というニュース!でもたまたまその日は他にニュースがあったので我々の“暴走”は報道から免れたのだった。あー、助かった!


第127回 ジャズの前奏

 落語では最初にちょっとした小話を話して観客を笑わせる。これを「まくら」というがまくらで噺家の自己紹介を兼ねると同時にこれから始まる噺への期待を高める。
 ジャズの場合、このまくらに相当する部分が2種類ある。一つはバース(Verse)と言って歌ものに使われる。本題の歌はコーラス(Chorus)と呼ばれるがその経緯や伏線を説明する。実際の演奏では全てバースを歌うのはかなり歌手にとっては負担であり、聴いている方もくどく感じるので割愛することも少なくない。
 もう一つのパターンはイントロと言って簡単に4〜8小節の短いフレーズを挿入する。短いフレーズといえどもこのイントロ次第で本題の曲を盛り上げる役目を果たす。一般的にはピアノで即興的に演奏されることが多いが名プレーヤーの名フレーズが定着したものもある。
 まくらにしろイントロにしろ曲とは直接関係ないとはいえ大切な導入部である。起承転結の起にあたる部分でジャズの場合はここでテンポや曲想を暗示する。エンディングと共に演奏の善し悪しを決める重要な要素である。“始め良ければすべて良し”かもしれない。


第128回 曲のキー

 曲の音階(音の高さ)を簡単にキーと呼んでいる。原曲のキーは作曲者によって定められている。クラシックの場合などでは厳格で「第1楽章 アレグロ 変ホ長調」などの指定に従うのは当たり前のことである。
 ジャズの場合も作曲者がキーを指定しており、原則としては指定のキーで演奏することが望ましい。しかし楽器に合う音域やプログラムに変化をつけるためにキーを変えることも良くある。またヴォーカルの場合歌手の声域が決まっているので彼らの歌いやすいキーを指定される。
 キーの種類は12音あり理論的にはその中のどのキーでも演奏することは可能である。しかし実際にはキーを半音上げ下げすることで演奏はとてつもなく難しくなる。モダンジャズの創世記にはチャーリーパーカーのような超絶技巧の一派がおり、彼らはへたくそな飛び入りを許さぬためにわざと難しいキーで演奏したそうである。
 通常のライブで歌手が飛び入りで歌う場合、奏者の苦労も知らず(?)すごく難しいキーを指定されることがある。「カラオケじゃあないんだからもう少しバックの奏者のことも考えてくれよ。」とまあ愚痴の一つも言いたくなるのだがしかし実際には粛々と歌手のお気に召すよう難しいキーに挑戦するのである。


第129回 世阿弥の教え
 世阿弥は室町時代に人気を博した能役者である。彼は父の観阿弥から手ほどきを受け、能役者として大成し時の将軍足利義満の寵愛を受けた。
 更にライバルとの熾烈な争いの中で芸を磨きその経験から考え方を「風姿花伝」なる書にまとめたのである。
 この時代将軍や公家の庇護を受けることが能という芸の継続、発展上不可欠でありそのための切磋琢磨であった。従ってその地位は常に安泰であったわけではなく現に彼も将軍の寵愛が他の役者に移ったため佐渡に流され寂しい晩年を送ったと言われている。
 彼の名言の中に「男時、女時」がある。芸にはノリノリの時期(男時)と何をやっても上手く行かない(女時)があるが女時の間はじっと我慢して男時を待てと言っている。これなどは単に芸の上での教訓ではなく人生訓として捉えられている。
 また有名な言葉として「秘すれば花」という語がある。これは芸の上でとっておきの「奥の手」を用意し、それをいざという時まで秘して置くことにより相手に対するインパクトを高めよという教えである。言っている意味は分かるが現実的には「秘するに値する」技って一体どんな技なのかしら?世阿弥が生きていたらその技を是非見たいものである。

第130回 イントネーション
 先日桂三枝師匠がパリ公演を行う際に上手いことを言っていた。フランス語は関西弁に、英語は東京弁に似ている…と。その通りと思う。例えば東京では“困っちゃったよ”と撥ねるが関西では“こまりまんなあ”と柔らかい。フランス語もシャンソンでは鼻に抜けるソフトな言葉なのに対し、英語ではより強い舌のタッチを使い分ける。発音の種類も多い。
 イントネーションの違いは日本人が管楽器を習得する場合の最大のネックになっている。例えばジャズでは音符が4つ並んだ場合、“タタタタ”とは吹かず“ドゥダドゥダ”と吹くのである。簡単に言うと演奏中舌は縦横無尽に常に動く。しかし日本語では舌はそう活発に動かず緩慢な動きである。
 従って一口にタンギングと言ってもジャズの場合、何種類ものタンギングをマスターしなければ上手く曲を表現できない。特に管楽器の場合は瞬時に色々な舌の動きを組み合わせて表現しなければならないのだ。
 また外国の歌に日本語の歌詞を付けて歌う場合がある。ジャズよりもシャンソンの方が日本語の歌詞に合っているように感じる。最近の若い人の歌で“英語のような日本語”(私は嫌いだが)で歌われることがあるがやはり強いタッチの日本語の語感を求めてのことであろう。音楽とイントネーションの強い結びつきを痛切に感じる。


第131回 日本の管楽器メーカー
 楽器生産の業界で日本は長い間後進国であった。現在でもヴィンテージと言われる古い楽器は外国製である。しかし新しい楽器分野では日本の楽器は著しくその評価を上げてきた。今やヤマハやヤナギサワの楽器は世界のプレーヤーにも評価されるほど品質が向上してきている。
 こうした動きに加えて最近日本には中小ながらサックス・メーカーが登場した。元々は創業者の楽器好きが発端で試作しているうちに専門業者に成長し、企業として旗揚げした会社である。創業者は楽器や機械いじりが好きで研究熱心でとことん手作りにこだわって独自の楽器を開発した人たちである。
 私の知っている楽器メーカーは2社あり、一つは四国に、そしてもう一つは何と我が家のすぐ近くの大和市にあった。先日大和にある工房を初めて訪ねてその社の製品を試奏してみて驚いた。マウスピース(唄口)、楽器とも大変音が良いのである。外国のヴィンテージ楽器に比べても遜色ない。こんな会社がこんな近所にあったとは!世の中は狭い。
 楽器奏者というのは良い楽器に遭遇するとどうしても欲しくなるのだ。色々試し吹きをしているうちにすっかり気に入り、欲しくなってしまった。さすがに楽器本体は高価でもあり、おいそれと購入するわけにもいかないがマウスピースくらいなら何とかなる。久しぶりにささやかな“浮気”をしてみようと思っている。

第132回 ジャズで演奏するクラシック曲
 ジャズのレパートリーの中にクラシックの曲を入れることは珍しくない。古くはベニー・グッドマン楽団のテーマ“Let’s dance”はウェーバーの”舞踏への勧誘“が原曲だし、トミー・ドーシー楽団の”Song of India”(インドの唄)も当時大変ヒットした。
 私自身もライブの演奏プログラムにクラシック曲をよく用いる。例えばOver the waves(波頭を超えて)Going home(新世界より)Humoresque(ユーモレスク)Anniversary song(ドナウ川の漣)など等である。更に私のライブのクロージングテーマ(最後に演奏する曲)はモーツアルトの子守唄を用いている。
 これらの曲はいずれもジャズで演奏しやすいコード進行ときれいなメロディが特徴である。ただ一方ではジャズに向かないクラシック曲も多数ある。しかし積極的に探せばまだまだジャズに転用可能な曲があるかもしれない。
 ただいえることはこうしたクラシック曲はメインのプログラムにはなりえないのである。演歌や歌謡曲を演奏するのと同様あくまでライブのスパイス役に過ぎない。ただゴリゴリのジャズの中でちょっとこうした曲を入れることによってホッと肩の力が抜けるのである。


第133回 ヴィブラートの魅力
 ヴィブラートとは“声楽や器楽演奏などで音の高さを細かく上下に震えさせる技巧”のことである。一般的に楽器や歌で曲を表現する場合の技法としてメンタル面はさておき、フィジカル面から捉えると音質、抑揚、緩急、タッチ等と並んでヴィブラートも重要な要因の一つである。
 身近な例で言えばカラオケで普通のおっさんでも演歌を実に上手く歌う人がいる。こういう人は先天的にヴィブラートや小節(こぶし)が上手い。逆にノンヴィブラートの歌もあるが気を付けないとノン・ヴィブラートの場合は音程のずれがモロに出てくるので要注意である。
 ヴィブラート奏法は上下する音の振幅、サイクル、緩急などが相まって独特の風合いが出てくる。ジャズの場合人によりその技法は千差万別である。バラードの一小節聴いただけで奏者がだれか分かるほど皆個性的な音とヴィブラートを持っている。
 概して昔のジャズほどヴィブラートが顕著である。グレン・ミラーやガイ・ロンバート、ベニー・グッドマン等古いジャズでは独特なヴィブラートとサウンドを持っている。古いジャズファンにとってはヴィブラートこそが何よりも昔懐かしい“美味しい”サウンドなのである。

第134回 セッションの功罪

 ライブハウスでの演奏形態としてまずは通常の演奏者主体のライブの他に楽器を持った来場者が自由に参加できる“セッション”というシステムがある。このシステムは楽器や歌をやりたい人がセッションのリーダーの指示のもと演奏に参加できるシステムである。
 このシステムの良い点は誰でも演奏に参加できるので初心者でも実戦体験ができることである。参加者は皆ライバルであるから演奏面での刺激や参考になることは間違いない。更にそこで知り合った演奏者同士が発展してバンドを結成することも可能である。初心者の実力向上には欠かせないシステムと言える。
 ただ欠点はセッションでは目立とうとするあまり演奏内容が雑になる可能性がある。また演奏曲目も皆が同じ曲をやる傾向があり、レパートリーの重複は避けられない。一般的に余り聴き映えのしないゆっくりしたテンポのバラードものなどは敬遠される傾向が強い。
 じっくりジャズを聴きたいお客様にとっては演奏上の不満があるかもしれない。しかしこのようなやり方は集客の一方法なのである。個人でライブを開催してもお客様集めはとても苦労する。セッションにすれば少なくともプレーヤーは客の一人として見込めるのだ。だから演奏レベルには多少目をつむってセッションにも足を運んで戴きたい。


第135回 音程の話
 音楽では声楽、器楽を問わず音の高さ(音程)を合わせることが大前提となる。器楽の場合絃楽器なら絃の張り具合により、管楽器なら管の長さにより音程をコントロールできる。しかし演奏の中で正しい音程を保つには奏者の技術に頼らざるを得ない。
 最近の楽器の質が向上し音程は正確になっているが古い楽器では独特の癖がありそれを飲み込んで演奏しないと音程が取りにくい。また気温は音程の敵である。真冬の野外では管が冷え切って音程は上がらない。また演奏中管が温まると音程が上がるので再調整する必要がある。
 更に音程合わせを難しくしている要因がピッチの差である。普通音合わせはピアノの中心にあるA音(ラの音)で合わせるがピッチの基準は気温20度で440ヘルツがとなっている。しかしこれは国やバンドによって異なるのでややこしい。ヨーロッパのオケは444くらいが多く我々は通常442を基準としている。
 質の高い音楽には高い演奏技術や豊かな表現力が求められる。音程は基礎体力のようなもので音楽性とは直接関係がない。しかし音楽の基本として音程は見過ごすことのできない重要な基礎技術なのである。

第136回 ジャズバンドと歌手の盛衰
 ビッグバンドジャズ全盛時代にはあくまでバンド演奏が主体であり、ヴォーカルはビッグバンドのプログラムの一部と考えられていた。歌手はバンドの片隅にちょこんと腰かけており、歌の出番の時だけセンターマイクで歌っていた。勿論他のバンドで歌うことは出来なかった。
 所が1942年以降女性歌手の人気が高まるにつれ歌手がメインでバックバンドを従えるようになってきた。ドリスデイの様な花形歌手が続々誕生し、人気を博したのである。その一方でビッグバンドジャズは飽きられて衰退の一途を辿る。歌手のバックバンドといえども大人数のビッグバンドよりは少人数のコンボバンドが中心となってきた。
 そのため現在ではプロのビッグバンド演奏を聴く機会は殆どなくなってしまった。ビッグバンドはもはや「絶滅危惧種」なのである。日本でも時たまジャズ祭などで見かけるビッグバンドはその都度臨時メンバーを集めて構成されている。誠に悲しい現実である。
 所がこうしたビッグバンドジャズはアマチュアによって復活を遂げつつある。“採算”に頭を悩ます必要のないアマチュアバンドは精力的にコンサートを行い、バンド数も毎年増加の一途を辿っている。中高のブラスバンドで鍛えられた優秀な奏者はごまんといる。かくてジャズは時代のニーズと演奏する側の状況で大きく様変わりしているのだ。


第137回 “まくら”と“箸休め”
“まくら”とは落語などで本題に入る前の短い話のことである。また“箸休め”というのは「食事の途中で気分を変えたり口をさっぱりさせたりするために食べるちょっとした料理」と辞書にある。
 どちらも日本の文化の素晴らしい味付け方法と言える。ライブではまずまくらに相当する最初の曲には大変気を使う。分かりやすく乗りやすい曲が適している。オペラの序曲に相当する。短めに演奏し、これからのプログラムへの期待を高める。余計な説明も不要である。
 一方箸休めに相当するプログラムはライブも佳境に入ったところで耳になじみのある例えば日本の曲やポップスの曲などを挿入すると聴いている方も肩の力がふっと抜ける。時々他人のライブで激しいアドリブソロが続いた後にはさっぱりと軽やかな曲が聴きたくなるものだ。
 このように日本の演芸や料理には我々が学ばねばならない妙案がまだたくさんある。ライブの演奏時間は1〜2時間だがこうした細かいことに気を使ってプログラムを組めばよりお客様を飽きさせず、満足感を持っていただけるのではないだろうか。

第138回 2種類のクラリネット
 クラリネットには新旧2種類の形態がある。(正確にはもう1種類あるのだが話を簡素化するためにここでは2種類としておく)一つは現在広く普及しているボエーム式というもの、そしてもう一つは旧式なアルバート式である。
 現在ではプロアマとも殆ど全てボエーム式を使用しており、アルバート式はめったにお目にかからない。この旧式クラリネットは大変簡素なつくりであり、それだけに運指がとても難しい。特に指の短い日本人にとっては扱いにくい楽器である。
 なぜこのような“絶滅危惧種”みたいな楽器が残っているかというとただ“音質が良い“からである。古いニューオリンズスタイルのジャズではこの楽器が用いられることが多い。もうどのメーカーも生産していないためネット上で入手するしか方法がないのである。
 最近このアルバート式クラリネットを友人から入手して練習を開始した。案の定扱いには大いに手こずっている。まだ完全に穴をふさぐ事ができないため雑音に悩まされており、まさに“初心者的な苦労”を味わっている。この楽器をマスターできるかどうかは疑問だがいつの日かこの太く、豊かな音をライブで響かせたいものである。

第139回 “Listen”と“Hear”
 音楽を楽しむに当たっては昔レコードが主体であった。レコード盤に針を落とす瞬間は集中し、これから音楽を楽しむぞという意気込みが感じられたものである。しかし最近は音響機器の発達、音楽ソフトの充実などにより簡便に音楽を楽しむ事ができるようになった。
 自由に音楽を楽しめるに越したことはないが反面集中して音楽に没頭することは少なくなったのではないだろうか。音楽を聴く(聞く)には二つの単語がある。Listen(耳を傾ける、熱心に聴く)とHear(耳に入る、聞こえる)であるが最近はHearが中心のような気がする。
 音楽を習得する立場であればさらっとhearするだけでなく時には一音も逃すまいとlistenすべき時もあってしかるべきである。Hearと譜面だけから習得した音楽はどこか軽薄で表面的である。しっかりと繰り返しlistenしなければ真の理解は難しいと思う。
 ジャズを学び始めた頃は一つの曲について“A楽団が良い、いやBバンドだ、ああでもないこうでもない。”と一晩中レコードを交互にかけながら論じ合ったものである。そこまでする必要はないがいつも車内のCDやヘッドフォンでの“ながら聞き”ばかりでなく、時には真剣に集中してListenする機会を作ってほしいものである。

第140回 ジャズの換骨奪胎(かんこつだったい)

 “換骨奪胎”とは先人の詩や文章などの着想などを借りて新味を加えて独自の作品にすること…と辞書にはある。ジャズの場合、メロディや歌詞は著作権があり真似することは出来ないがアドリブの基礎となるコードに著作権はない。そこで同じコード進行で別の曲が生まれる。
 この方法での作曲の大家はサックスの巨人チャーリー・パーカーであろう。彼は既存の曲のコードに従ってアドリブソロをやり、これが新曲となって定着している。これは彼のアドリブソロがいかに優れているかの証しとなる。彼のソロは“OMNI BOOK”という名のもとに譜面が出版されており、アルトサックス奏者を目指す者のバイブルとなっている。
 一方デューク・エリントンもこの手法で曲を書いている。“Rose room”という古い曲と同一コードに従って”In a mellow tone “を作っている。どちらの曲も今や押しも押されもせぬスタンダードナンバーである。こちらの曲はアドリブソロではなく独立したメロディに仕上がっている。
 コードというのはジャズならではの実に魅力的な概念であり、同じコード進行であれば違う曲を演奏してもピタッと合う。例えば古い映画に“5つの銅貨”では3つのテーマ曲があり、これを3人が一緒に歌って独特のアンサンブルを醸し出している。同じコードに従えばこうした自由な展開が可能となる。まさにジャズの醍醐味のひとつであろう。



過去のエッセイ

−第 1回から第20回
−第21回から第40回
−第41回から第60回
−第61回から第80回
−第81回から第100回
−第101回から第120回
−第121回から第140回
−第141回から第160回