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横須賀オン・マイ・マインド

(横須賀のタウン誌 「朝日アベニュー」に毎号連載中のショートエッセイをそのまま掲載しています。)


第1回  脱サラジャズマンの誕生
 私は35年間勤めてきたサラリーマン生活をリタイアし、ジャズサックス奏者に転向した変わり種です。ヨロシク。
 ジャズとの出会いは中学頃からだったかな。当時横須賀にはEMクラブやベース等、ジャズが一杯。誠に良き時代でした。夢多き多感な少年は「よーし、将来絶対にジャズプレーヤーになって皆の前でかっこよく演奏するぞ」と意気込んだものでした。
 以後役半世紀の間、会社でのいじめや足の引っ張り合いにもめげず、細々と、又こそこそとジャズを継続。かくてリタイア後晴れてジャズサックスプレーヤーとなったのであります。ホント、良くやると思うよ、我ながら。
 「今日もライブだ、大変だなあ参っちゃうよ。」すかさず我が奥方曰く「全然大変そうじゃないじゃないの、目は笑っているわよ。」だと。ごもっとも。
 でもナンだね。夢は持ち続ける事が大切だとつくずく思う。ホントに。
 そして私に素晴らしい夢を与えてくれた横須賀の街は最高だね。言ってみればまさに“横須賀オンマイマイド“(我が心の横須賀)って言うわけなのです。

第2回  クラリネットさん、始めまして
 私が始めてクラリネットに巡り会ったのは中学3年。新たにブラスバンドが結成されることになり、全員初心者の応募者適性検査で。「手を見せろ、よしお前は指長いからフルート。次、お前は歯並び良いからトランペット。お前は図体でかいからチューバ。…あと決まって無いやつ。そいつ等は全員クラリネット。」こうした屈辱的な振り分けでクラリネットに巡り会ったのです。そんなもんよ、出会いなんて言うのは。
 講師は軍楽隊出の人でこえーのこわくねーのって。指揮棒をぶん投げられたのはしょっちゅうで、何時も怒鳴れっぱなし。それでも初心者ばかりの集団が半年後には3曲を人前で立派に演奏したんだから、大したもんだと思うよ。
 学校の名は栄光学園というミッションスクール。一般には勉強一本槍の石部金吉養成校みたいな印象を世間に与えているがが、結構何事にも積極的、前向きに取り組む事をたたき込まれた気がする。私にとっては青春はクラリネットと共にあり…て言うことかな。
 でもこの時期の猛練習はスポーツでも何でも身体に浸み込むもの。その意味であのおっかねえ先生には今更ながら「大感謝」だ。

第3回  横須賀が生んだ天才アルト奏者
 昔々、横須賀の街に中村喜美夫さんという大層サックスの上手い人が居た。彼の凄い演奏は伝説的で、日本の一流ジャズマンへの影響も多大。特にGI達には多大の人気があった。所が酒の飲み過ぎが原因で、脳梗塞に倒れ、片手が効かなくなってしまったのである。
 氏が私の遠縁に当たるということを聞いていたので、当時多少ジャズを聴きかじって小生意気になっていた私はある日、意気揚々と彼の門を叩いた。
 両手の指が自由に動かないのでうまく演奏ができるのかと心配したが、そんな心配は無用。指が余り動かないのに、もの凄い音と唄心。よく剣豪小説であるじゃない。剣を合わせただけで、打ち合う前から“ダメだこりゃ”ってやつ。演奏後のとどめの一言。「三雄君、君の音は全然ジャズじゃないよ。吹き方が全く違うんだよ。」ジャズとブラバンでは奏法が違うってことを知った私はその後奏法の改善に徹底的に取り組むことになる。
 そして初対面から苦節ン十年、葉山のレストランで再会を果たし、共演後の彼の一言は私を涙が出るほど狂喜させてくれた。「三雄君、いい音になったねえ」氏の没後、今年で10年になる。

第4回  トラ修行の日々
 バンドで欠員が生じたときのピンチヒッターのことを業界では“トラ”(エキストラの略)と呼ぶ。このトラ、全然知らないバンドで譜面は全て初見(初めて見る譜面)。プロバンドは何百曲もある譜面から、“次何ばーん”と言ったらすぐ音出すわけ。漸く譜面が見つかったときにはもう10小節くらい進んでる。慌てて吹き始めて、おかしいなと思い、頭を見たら♯が5つも…、なんてコトもザラ。
 まだ新入社員の頃、ある時会社の課長席に電話が入る。課長が「おい、高橋君、電話!」電話の向こうで「今晩、テナーサックスでお願いしまーす。」なんてのどかな声。こちらは声を潜めて「はあ、その件に関しましては後ほどご連絡を…」ああ、やばかったとホッとしていると、課長が「今の電話はどこからだ?」「あの、友人から…」「クリフサイドって何だ?」「えっ!何か、飲食関係みたいな…」「…?」それにしても何故課長席に電話が繋がったんだろう?やがて謎が解けた。新入りのくせにナイトクラブからの電話だと知った交換嬢がわざと課長席に繋いだ“いじめ“だったのだ。それからというもの、おみやげを小脇に交換室を度々訪問する私の姿があった。

第5回  ラスカルズをご紹介いたします
 私のジャズ人生は、ラスカルズとの出会い抜きで語れない。このバンドの正式名称は“ニューオリンズラスカルズ“といい、大阪の老舗バンドである。メンバーは全員アマチュアだが、発売したレコード、CDアルバムは優に40枚を越えている。人気、実力ともハンパじゃないのだ。
 設立当初より、ニューオリンズジャズのスタイルを頑固に守り、黒人や欧州のミュージシャン達との交流も活発である。海外での演奏経験も豊富で海外での知名度は(ミュージシャン仲間では)むしろ国内に優っているほどだ。
 私がこのバンドに在籍したのは2年間の大阪支店勤務時。レコードは数枚、海外演奏旅行は1回だけであるが、この演奏旅行で受けたインパクトは強烈で今でも体内に熱く宿っている。特にニューオリンズで同市名誉市民章受章後1週間の滞在中、本場の黒人ミュージシャンとの連夜のセッション経験は私の音楽感、ジャズ感を根底から覆したと言って良い。
 ジャズは技術だけじゃない“何か“が必要なんだ。それは唄心であり、スイング感であり、個性である。今でも私のジャズの持論となっている。

第6回  ニューオーリンズ良いとこ一度はおいで
 ニューオリンズという街はアメリカ南部、ルイジアナ州の州都で“ジャズ発祥の地”として知られている。看板に偽りはない。世界中からジャズ好きな観光客が押し寄せ、街中ジャズが溢れている。
 目抜きのバーボンストリートは新宿歌舞伎町ほどだろうか。夕刻ともなると両側のバーやカフェの開け放たれた窓からは雑多な音楽がガンガン聞こえてくる。窓の外から“立ち聴きのはしご”だけ一晩中やってても飽きないほどだ。
 中でもプリザベーションホールという古ぼけたホールでは本場のニューオリンズジャズが格安で聴ける名物スポットとあって、いつでも長蛇の列が絶えない。
 私もかつてニューオリンズ滞在中はここで黒人ミュージシャン達と度々セッションを行った思い出の場所でもある。
 私はいつも感ずることなのだが、日本のジャズって何か気取りすぎてないだろうか。高い金払って着飾って聴くような代物ではないんだ、ジャズなんていうのは。ニューオリンズみたいな開放的な音楽環境からこそ優れたジャズが生まれて来るのだ。横須賀がニューオリンズのようにジャズ溢れる街になることを願って止まない。

第7回  どうすりゃいい、リクエスト
 ライブ等でのリクエストはプレーヤーと聴衆を結ぶ有力なコミュニケーション手段のひとつである。
 お客様の思い入れや好みとバンドカラーがうまくマッチし、ノリノリの演奏で皆様が満足していただく曲目が結果的には最良のリクエストと言えるだろう。従って余り独りよがりの曲や、バンドのスタイルと大きくかけ離れている曲は適切な曲とは言い難い。
 以前あるスナックで「君が代」というリクエストを戴いた。折角のリクエストなので演奏はしたが、好き嫌いの問題でなく、客観的に見てジャズバンドがスナックで演奏する曲としては“如何なものか“という事になるだろう。
 先月号に書いたニューオリンズのプリザベーションホールには次のようなリクエスト料金表示があった。そこには 
Tradisional $1
Others $2
Saints $5
とある。つまり、最も得意とするトラッド(古い曲)は最も安く、その他の新しい曲はやや高く、必ずリクエストのある“聖者の行進“は特別料金となっている。プレーヤーの意向と演奏効率の双方を狙ったうまいメッセージである。

第8回  野口久光先生の思い出
 もう亡くなられたが、野口久光さんというジャズ評論家がいらした。この方は歯に衣着せぬ毒舌評論家として有名であったが、大阪のラスカルズのライブには度々お見えになり、「高橋さんのアルトはいいねえ、僕は好きなんだよ」と言って戴いた。お世辞9割としても、後にラスカルズのレコードのライナーノート(解説書)に“高橋のアルトが光っている“等とおだてたところを見ると、下手くそだけど素朴な演奏が新鮮に聞こえたのかも知れない。
 大阪から東京への帰任後何年か経過し、あるジャムセッション(飛び入り自由のライブ)に野口先生がお見えになった。早速駆け寄って挨拶する。「先生、お久しぶりです」「ああ、どうも」とそっけない。そりゃそうだよな、天下の太先生が俺のことなんか覚えてる訳ないよな、と思い席に戻る。間もなく私の出番で2,3曲演奏し、終了後、向こうから先生が「高橋さん何処だ」と探していられる。「先生ここです。先ほどご挨拶は…」「やあ申し訳ない。今、貴方の音聴いて思い出したんだ、いいねえ、高橋さんのアルトは」
 先生が叙勲を受けられたのはその数年後であった。

第9回  黒人ジャズよ永遠なれ
 ジャズは元々黒人の音楽であったが、白人のベニーグッドマンが始めて黒人ピアニストのテディウィルソンを採用し、白人黒人混合演奏が実現した。然し、残念ながらそれで一挙に白人黒人の壁が撤去されたと言う訳ではない。
 日本人の場合、ジャズへの接近は概ね白人から始まる。その理由は映画にある。ベニーグッドマン物語、グレンミラー物語等、すべて白人ジャズマンが主役なのだ。私もご多分に漏れず、高校生の頃、映画を見て猛烈にベニーグッドマンに憧れ、彼のクラリネットのフレーズを懸命にコピーしたものである。
 然し、その後ジャズに深く接するに連れ、ジャズの主流が黒人で、その改革のキーも黒人が握っている事に気づく。白人はこれを当たり良くアレンジ又は発展させて大衆に提供するという基本的な構図が浮かび上がる。
 つまり、未だに白人黒人混合の演奏が急激に普及しないのは、アメリカ特有の人種的な要因もさることながら、ジャズのテイストの違いと言った根本的な側面が見逃せない。“やはりジャズは黒人の音楽なんだなあ“という素朴な結論を痛感する今日この頃である。

第10回  ハワイにもいた大達人
 ニューオリンズラスカルズのアメリカ演奏旅行の最終地はハワイであった。ニューオリンズを始めとして各地でジャズの名手、スター達に接したり共演したり、夢のような2週間の後、ハワイ大学でのラストコンサートとなった。
 アメリカは広い。ここでもすごい達人がいたのである。この人の名はトラミーヤング。長い間サッチモ(ルイアームストロング)のバンドで演奏していた名手である。勿論我々はレコードなどでお馴染みの大スターであったが、当時は第一線を退き、ハワイで悠々自適の生活を送っていたのだ。
 彼が途中から舞台に登場し、我々と一緒に吹き始めて驚いた。技術もすごいが音の太さが桁違いなのだ。道場で鍛えた竹刀というより戦場で何人も倒した剛剣という印象。レコードでは到底知り得ないド迫力であった。
 引退後の当時でも毎日5〜6時間のトレーニングは欠かさないそうで、我々にもさりげない一言。「君たちも毎日最低3時間は練習しないとね。」とのこと。私がこのノルマを達成できたのは学生時代とリタイア後のここ2,3年である。35年間のブランクは余りにも大きいと言わざるを得ない。

第11回  何と言っても生が一番
 と言ってもビールの話ではない。この連載にも度々書いてきたがクラシックであれ、ジャズであれ生音(なまおと)にはレコードやCDにはない迫力と説得力がある。良質な生の音楽に接することは良い音楽づくりを目指す人にとって重要な第一歩となる。
 先日テレビで小沢征爾氏が松本で斉藤記念コンサートに参加し、演奏を聴かせると同時に若い生徒達を指導するシーンがあった。松本の人達は本当に羨ましい。少なくともあの生徒達の中から感激を大きなよりどころに将来成長する人が少なからず出るに違いない。
 学校の音楽関係のクラブもレベルは年々間違いなく向上しているが、更に質的に向上するためには良質な生の音楽にもっともっと数多く接することが大切である。
 こうした機会が少ない事の責任は音楽を提供する側にある。若い人達が気軽に生演奏を聴ける場が現実的には余りないのだ。国内でも功成り、名遂げた音楽家は小沢氏のように良質の音楽を広く普及させる事にもっと心を砕いて欲しいものである。そして我が街横須賀もこういう場をどしどし創出し、真の文化都市としてその名を全国に広められたらいいなと思う。

第12回  友を悼む
 2002年という年は私にとって当コラムの執筆やジャズ教室の開設等、新しいチャレンジの年であった半面、5人の友人を失った悲しい年でもあった。
 5人とも50代で昔からの音楽仲間、そして皆癌であった。9月に逝ったSさんの事は特に忘れられない。彼は96年に脳腫瘍から奇跡的に回復したあと、4種の癌にことごとく打ち克ってきた。優秀なクラリネッターだったが、3度目の喉頭癌が原因で吹けなくなってからピアノに転向し、ここ2,3年はピアニストとしてずっと一緒に演奏してきたのである。
 彼のホームページには闘病の模様が赤裸々に描かれており、6月の書き込みが絶筆となった。そして8月に浅草HUBで最後の共演後、2日後に入院したのである。9月はじめに病室を見舞った時の彼の力無い笑顔が未だに瞼から離れない。私は気の利いた激励の言葉も見出せず、病室を後にした。訃報はその10日後であった。
 葬儀は故人の生前からの希望通り音楽葬で執り行われ、ニューオリンズスタイルのブラスバンドで賛美歌を演奏しながら、私は無念であったろう彼の早い死を思い、涙が止まらなかった。

第13回  ライブは怖くない
 先日私のジャズライブに友人を招いたら“何を着ていけばいいの?”と質問を受け、あ、そうか、そういう疑問もあるのか、と改めて思い知らされた。
 ざっくばらんに訊くと不安材料は色々あるようだ。まず料金である。一体いくらかかるのか。これは店や出演者により千差万別だが、基本的に料金はチャージと飲食費から成る。予めおおよその料金を確認していけば安心である。冒頭の疑問であるが、クラシックのコンサートと異なり、通常ジャズライブの服装は自由である。
 拍手のタイミングはクラシックとジャズで異なる。クラシックは演奏が終わり、誰かが拍手するまでは待った方が無難である。然しジャズライブではアドリブソロが終わった段階で、曲の途中でも遠慮なく拍手してよい。むしろこの拍手が奏者を乗せるのだ。問題は曲の手拍子だ。演歌等では1,3拍目なのに対しジャズは2,4拍目に叩く。自信がなければ成行きを見て回りに合わせた方が良い。
 ライブの醍醐味は演奏者と聴衆が一体となり、お互いが演奏を盛り上げていく事にある。会話を自由に楽しみたい方は早めに居酒屋か喫茶店への移動をお勧めする。

第14回  ジャズは体力だ
 海外のミュージシャンと共演すると、ジャズは体力勝負だとつくづく感じる。
 最も痛切に感じるのはジャムセッションに臨んだ時である。ジャムセッションというのは一つのテーマに基づいてプレーヤーが自由にアドリブを競ういわば音楽の格闘技である。かなり興も乗り、夜も更けてそろそろこちらの瞼が重くなる頃から彼らのフレーズは俄然精彩を放ってくるのだ。疲れるどころかアイディアがどんどん膨らんで来るみたいだ。単なるスタミナやパワーとも異なり、精神高揚力とでも言うのだろうか。
 更に彼らは滅法酒に強い。いくら飲んでもだらしなく酔いつぶれる事がない。それどころかフレーズが冴え渡ってくるのである。ズートシムズと言うテナーサックスの名手はべろべろに酔っぱらってもすごくスイング感のある演奏をしたことで有名である。ある人が彼に訊いたそうだ。“貴方は何故酔っぱらってもあんなに上手く吹けるのか“と。彼は言った。“そりゃあいつも練習の時から酒飲んでるからだよ“だと。
 私もズートにあやかり、楽器は別にして飲む方の練習だけは毎日欠かさず続けている。

第15回  ジャズはリズムだ
 世の中には演歌や歌謡曲のような唄物は好きだがジャズやロックはどうも、と言う方が大勢居る。この気持ちは分からぬでもない。
 基本的に唄物は詩が先にあり、これにメロディが付く。従って曲想が描きやすく、覚えやすい。カラオケで皆思い入れを込めて熱唱している姿を見ればよく分かる。
 それに対してジャズではまず最初にリズムありきだ。これにメロディが付き、歌詞は後で付けられる事も多い。特にアドリブ主体のジャズではメロディさえも一部演奏されるだけなので余り分からないこともある。このようにリズム優先になった理由はジャズがダンス音楽としてスタートしたからであろう。従って身体を動かしたくなるようなスイング感やドライブ感が最も重視されるのである。
 勿論、ジャズでもヴォーカルの素晴らしい詩の付いているものもあれば、しっとりと音の美しさを強調するジャズもある。だから楽み方は人それぞれ。眉間に手を当てて難しい顔で聴いても一向に差し支えはない。然し身体をリズムに合わせて揺らし、手を打ちながら楽しく聴いて帰ればカラオケ熱唱に優るとも劣らないリラクス効果がある事は間違いない。

第16回  あがるな、落ち着け
 絵画や書は一つの作品に充分時間を掛けて練り上げることができるが、音楽や舞踊では稽古場でいくら上手く行っていても本番のステージでトチったら苦労は水の泡となる。本番でトチる最大の原因は“あがる“ことにある。
 私が今までに一番あがったのは大学に入って始めてのコンサートで、幕が開いたら観客は女子学生ばかり。男子高校出の私は女性の前での演奏経験が皆無だった。頭の中は真っ白で何を演奏したか全く覚えていない。
 ヨーロッパの有名な巨匠と言われるある指揮者は演奏の前に必ず何やらメモに目を通しているので不思議に思った楽団員が一体何が書いてあるのか恐る恐る尋ねた。指揮者はそのメモをそっと楽団員に見せた。そこには一言“落ち着け”と書いてあったという。
 このような巨匠にしてこうである。我々がある程度あがるのはやむを得まい。私は“少しくらい間違ったところで殺されやしないのだ。“と開き直ってからは余りあがらなくなった。むしろ最近では緊張感を楽しむ傾向にある。程良い緊張感とメンバーとの一体感が生じた時が結果的に最も良い演奏となっているようである。

第17回  ジャズを気楽に楽しもう
 先日、朝日新聞夕刊連載のエッセイで、寺島靖国氏が述べていた。氏の経営するライブハウスで1ステージの時間を短縮し、休憩時間を増やしたそうである。私は大賛成であり、当然の策と思う。
 更に言うと、一般にライブでの演奏では1曲の演奏時間がやたらと長い事が多い。しかも何の解説もなく次々に演奏されるとどの曲も同じに聴こえてしまう。ジャズを楽しむと言うより有り難く拝聴と言う感じ。この観客無視の不親切さがジャズ人気低迷の一因ともなっているのではないだろうか。
 若干我が田に水を引かせていただくと、私のバンドでは大体1曲は5,6分。簡単な曲の解説やエピソード等も取り入れ、1ステージは約30分から40分程度か。後は休憩時間にミュージシャンと客が混じって会話や酒を楽しむ。
 これではマニアは確かに不満かも知れない。然し客の中でマニアは一握りだから我慢してもらう。そうでもしないと一般の方はジャズからどんどん離れていき、やがては数人のマニアが難しい顔で聴くだけの陰気なライブハウスとなってしまうのではないだろうか。
 “寺島さん、頑張れ!“と大いにエールを送りたい。

第18回  耳からウロコ
 私の音楽とのつき合いの中で、目からウロコならぬ耳からウロコの落ちた経験が何度かある。最初のウロコはニューオリンズのクラリネッター、ジョージルイスの日本公演であった。
 学生時代から彼のレコードをすり切れるほど聴いていただけに来日を知って狂喜した。然し金が無い為東京公演のチケットを買えず、漸く友人宅に泊まって広島公演を聴くことが出来たのである。
 ステージでの演奏は期待を遥かに上回る迫力で涙が出てきた事を覚えている。終演後、警備が手薄なのを幸いに楽屋に潜り込み片言の英語で話し込んだ上、帰りには彼の使い古しのリードまで貰った。有頂天とはこの事である。
 その後、ルイアームストロングやデュークエリントン等の日本公演でウロコの落ちる事は多々あったが、ジョージルイスとの出会いは最初の経験だっただけにその印象はとりわけ強烈である。
 彼の墓はミシシッピー河を挟みニューオリンズ市の対岸にある。ジャズ仲間らと共にニューオリンズスタイルのブラスバンドで市内から墓までパレードし、念願の墓参りを果せたのは広島の楽屋訪問以来10年後のことであった。

第19回  バンドリーダーの役割
 バンドリーダーと一口に言ってもバンドの形態が様々で、バンド独自のカラーもあるので一概には言えない。コンボ(小編成)バンドの場合、リーダーの一般的な役割は選曲、曲の構成決め、演奏中の指示、司会進行等がある。
 中でも最も気を使うのは選曲である。客層を考慮しつつ、曲想やテンポの変化に気を付けながらプログラムを考える。何より観客に喜んでもらえるような、それでいて余り媚びる事の無いよう、自分のレパートリーの中から選んでいく。そして譜面やコードをメンバーのために事前に揃えておくのも業務の一環である。
 ただこれで終わればリーダーも苦労しない。肝腎なのはライブの雰囲気に応じて当為即妙に盛り上げていく事である。曲目も臨機応変に変更するし、リクエスト曲の演奏、ソロ演奏等何でもありだ。野球でバントや盗塁を適宜取り入るのと同じである。詰まる所、リーダーたるものの役割は野球の監督、オーケストラの指揮者、バンドリーダー、更に会社の社長に至るまで皆一緒で、周囲の状況を見つつ流れを自分の目指す方向に変えること、これに尽きるのではないだろうか。

第20回  諏訪内さんのエッセイを読んで
 最近諏訪内晶子というバイオリニストのエッセイを読んで大変感銘を受けた。彼女は20歳でチャコフスキーコンクールで優勝したのを始め、数々の国際コンクールの入賞経験を持つ文字通り“天才バイオリニスト“である。エッセイには日頃の凄まじい練習やコンクールでの想像を絶する戦い振りが描かれており、驚異に値する。しかしそれにも増して感激したのはこうして功成り名遂げた後の彼女の姿勢である。彼女の選んだ道は一時ソリストとしてのコンサート活動を休止し、一学生として音楽以外の勉強のために留学するのである。と同時に本業のヴァイオリンでは良き師を求めて世界中に勉強に飛び回るのだ。
 天才と言われる人は十代で技術的にはほぼ頂点に達する。しかしそこから真の音楽を生み出す事が重要で“天才も20歳過ぎればただの人“になる事も少なくない。そこから音楽に魂を吹き込まねばならないことに気付いた彼女はそのために人格形成の道を選んだ。音楽は機械でなく、人間が演奏するものだ。クラシックもジャズも同じだが人間性がそのままその人の音楽に直結するという事を痛感させられたエッセイであった。

過去のエッセイ

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